スポンサーサイト

  • 2019.01.26 Saturday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    日本の風景・西欧の景観―そして造景の時代

    • 2008.01.25 Friday
    • 22:26

    野生の自然の風景や農村風景とまったく同様に、都市風景もわれわれをとりまく客観的な環境との関連においてのみ存在するのではなく、われわれが環境に対して持っている主観的な表像との関わりにおいても存在する。したがってわれわれが都市風景を観賞するときも、また当然都市計画者が開発を行うときも、都市や都市性というものについて多少なりとも抽象的な観念に特に影響を受けることになる。一方こうした観念自体もわれわれの知覚する風景に影響される。

    このように複雑にもつれあった関係は、なかば現実的で、かつ観念的、なかば生態学的で、かつ象徴的という性格をもっているが、少数のモチーフとして明確な形をとることになる。これらのモチーフは時代によって変化するが、ある時代の都市計画の思想や都市に関する世論を協力に規定している。たとえば近年の日本では、緑や水辺というモチーフがそれにあたる。

    地中海―人と町の肖像

    • 2007.07.18 Wednesday
    • 01:26

    都市とはまずもって、住民が快適かつ豊かに生活しうる空間とみなすことができる。農業生産の経済から商品交換への脱却、その富の安全な集積地、軍事上の防衛と制度上の秩序、あるいは権力を整備したうえでの管理能力。どれもが、都市を定義する重要な指標である。ヨーロッパの都市は、それらのいくつかを兼併しながら、都市文明を成熟させてきた。だが、18世紀にいたるまで、その都市を眺望されるべき景観として理解し、表現しようとする発想が、明白な意識をともなって提唱される機会はとぼしかった。都市の成長過程があまりに急速、かつ広範囲にわたり、いまだ景観という視点までには、到達しがたかったからかもしれない。

    いずれにせよ、18世紀のころ、イタリアの都市から、景観というコンセプトがとなえられたのには、理由があろう。ヴェネツィアもローマも、当代にあっては経済・政治上の最前線に位置していたとはいえない。むしろ、それぞれ特異な分野において、特質を強調すべき事情におかれていた。しかし、ヴェネツィアもローマも、かつての栄光を都市の空間と時間のなかに宿しており、それがつくりだす景観に無限の吸引力を、あたえることが、可能となっていた。

    都市は、景観として住まわれることができる。居住者はそれを、みずからの努力で創出する。画家たちは、それを画面のうえでさらに再編・創造する。あたりまえの理法であるかにみえて、じつはその事実をはっきりと認識したのは、ことによると18世紀のヴェネツィア人とローマ人だったのかもしれない。かりにそうでないにせよ、この時代ののち、地中海イタリアの都市は、景観のなかに都市の生命をみぬき、意識するにせよ、しないにせよ、卓抜の都市らしさを産みおとしてきた。

    ダ・ヴィンチとマキアヴェッリ―幻のフィレンツェ海港化計画

    • 2007.05.21 Monday
    • 23:45

    自然について学ぶためには、注意深い観察から始めなければならない。「われわれの知識はすべて、われわれの知覚から生じる」。だが、世界を受動的に記録するだけでは十分ではない。「自然は、経験ではわからない原因に満ちている」。これらの隠された原理を発見するために、科学者は、客観的、数学的な方法で「法則」を定式化する必要がある。「数学が適用できなかったり、数学と関連づけられないものは、科学において確実であるとは言えない」

    ニュートンの海―万物の真理を求めて

    • 2007.04.19 Thursday
    • 00:20

    数学的直観と呼ばれている頭脳の能力を、本当に理解できる者はいない。それが天才となると、なおのことである。人間の脳というものはだいたい似たり寄ったりなのだが、ほかの才能に比べると、数に関する才能はもっとまれで特別な能力のようだ。それは普通とはまったく別な、異質の特性だ。天才のなかでも数学の天才ほど、特殊な才能をもつ知的障害者と共通したところのある天才はいない。世界に背を向け、内に向かって思いをひそめる頭脳にとって、数は輝きを放つ生き物のように見えてくるのだ。そしてそこに秩序と摩訶不思議な魅力を見出し、数がまるで親しい友だちのようになる。数学者は、いわゆるポリグロット〔数か国語に通じた人〕でもある。その強力な創造力がどこから湧いて出るかというと、それは同じひとつのことを、一見まったく似ても似つかない形で表せる翻訳の能力にほかならない。ひとつの公式化がうまくいかなければ、あきらめずまた別の形を試すのだ。

    ジェイムズ グリック
    日本放送出版協会
    ¥ 1,890
    (2005-08)

    フーコーの振り子―科学を勝利に導いた世紀の大実験

    • 2007.04.18 Wednesday
    • 23:44

    「この現象は静かに、だが必然的に進んでいき、誰もそれを止めることはできない。それが起こり着実に進んでいくのを、人は感じ、そして見ることができる。しかし人は、それを速めたり遅めたりする力は持っていない。この事実を目の当たりにした人は、誰でもしばし立ち止まり、静かに考えを巡らす。そしてたいていの人は去るときに、われわれが宇宙の中で絶えず運動していることをよりはっきりと敏感に感じ取り、その感覚を持ちつづける」

    ―レオン・フーコー 自らの振り子実験を語る 1851年

    最後の努力 ローマ人の物語XIII

    • 2007.02.09 Friday
    • 22:25

    分担とは、現にあるものを分割したのでは済まないという問題を内包している。分担とは各自の責任を明らかにすることでもあるから、その人々の間に競争状態が生れるのは、人間の本性からもごく自然な方向とするしかない。

    巨大化した組織体を分割し細分化すれば、機能性のほうも向上するのは事実である。しかし、すべての事柄はプラス面とマイナス面を合わせもつという人間性の現実にも眼を向けなければ、分割し細分化することによっての機能性向上はプラス面として、ではマイナス面は何か、という問題が残る。

    その第一は、分割し細分化することによって、かえってそれぞれの分野ごとの人間の数と、それにかかる経費の増大を招くという事実であった。

    人間とは、一つの組織に帰属するのに慣れ責任をもたせられることによって、他の分野からの干渉を嫌うようになるのである。そして、干渉を嫌う態度とは、自分も他者に干渉しないやり方につながる。自分も干渉しない以上は他者からの干渉も排除する、というわけだ。この考え方が、自らの属す組織の肥大化につながっていくのも当然であった。干渉、ないしは助けを求める必要、に迫られないよう、いかに今は無用の長物であろうと人でも部署でも保持しておく、であるのだから。

    狎貊勝とは、効率面のみを考えれば実に合理的なシステムに見えるが、深い落とし穴が隠されているのである。

    塩野 七生
    新潮社
    ¥ 2,730
    (2004-12-22)

    キリストの勝利 ローマ人の物語XIV

    • 2007.02.09 Friday
    • 22:18

    権力者には誰に対しても、初めのうちは歓呼を浴びせるのが民衆である。前任者のデメリットは、すでに何かをしたことにあり、新任者のメリットは、まだ何もしていないことにある。ゆえに、新任当初の好評くらい、あてにならないこともない。一般の市民も皇宮に関係している人々も、ひとまずは歓呼で迎えながら様子を見るのだ。被支配者と呼ばれて簡単に片づけられること多い「支配される人々」だが、この人々もそれなりの対応策を持っているのである。

    こうなれば、支配者である新任者の対応も2つに分かれる。

    第一は、それまでの既得権層を刺激しないようにしながら、獲得したばかりの権力基盤を固めるやり方。これは言い換えれば妥協だから、今後も、改革らしい改革には手をつけないことにつながりやすい。

    第二は、権力をにぎるやただちに、既得権層も非既得権層もいったい何がなされているのかわからない早さで、次々と政策を打ち出し実行に移すやり方である。

    改革がむずかしいのは、既得権層はそれをやられては損になることがすぐわかるので激しく反対するが、改革で利益を得るはずの非既得権層も、何分新しいこととて何がどうトクするのかがわからず、今のところ支持しないで様子を見るか、支持したとしても生ぬるい支持しか与えないからである。だから、まるで眼つぶしでもあるかのように、早々に改革を、しかも次々と打ち出すのは、何よりもまず既得権層の反対を押さえこむためなのだ。

    ローマ人の物語〈15〉ローマ世界の終焉

    • 2007.01.31 Wednesday
    • 00:30

    人間には、絶対に譲れない一線というものがある。それは各自各様なものであるために客観性はなく、ゆえに法律で律することもできなければ、宗教で教えることもできない。一人一人が自分にとって良しとする生き方であって、万人共通の真理を探求する哲学ではない。ラテン語ならば「スティルス」 (stilus)だが、イタリア語の「スティーレ」であり、英語の「スタイル」である。他の人々から見れば重要ではなくても自分にとっては他の何よりも重要であるのは、それに手を染めようものなら自分ではなくなってしまうからであった。

    もしかしたら人間のちがいは、資質よりもスタイル、つまり「姿勢」にあるのではないかとさえ思う。そして、そうであるがゆえに、「姿勢」こそがその人の魅力になるのか、と。

    recent comment

    recent trackback

    profile

     

     

     

     

    search this site.