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    銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎

    • 2007.05.25 Friday
    • 23:58

    「文明」や「文明の誕生」といった言葉には、文明をよいものとし、狩猟採集民はみじめな生活をしているという誤った印象をあたえるところがあるのではないか。人類社会の過去13000年の歴史は、よりよい幸福にむかっての進歩だったという誤った印象をあたえるところがあるのではないか−−−。しかしながら私は、産業かされた社会が狩猟採集の社会よりも「優れている」とは考えていない。狩猟採集生活から鉄器にもとづく国家に移行することが「進歩」だとも考えていない。その移行によって、多くの人類がより幸福になったとも考えていない。アメリカの都市とニューギニアの村落の両方で生活を送った私自身の経験から判断するならば、いわゆる文化の恵みと呼ばれるものには両面があると思う。たとえば、現代の工業化された社会で暮らす人びとは、狩猟採集民よりも優れた医療を受けられる。殺人で死ぬ確率も低い。平均寿命も長い。しかし、知人や親類縁者からの支援という面では、狩猟採集民より恵まれていない。私が、居住地域を異にする人間社会の差異について調べようと考えたのは、ある社会が他の社会よりも優れていることを示すためではない。人類社会の歴史において何が起こったのかを理解するために、これらの差異について調べようと考えたのである。

    ダ・ヴィンチとマキアヴェッリ―幻のフィレンツェ海港化計画

    • 2007.05.21 Monday
    • 23:45

    自然について学ぶためには、注意深い観察から始めなければならない。「われわれの知識はすべて、われわれの知覚から生じる」。だが、世界を受動的に記録するだけでは十分ではない。「自然は、経験ではわからない原因に満ちている」。これらの隠された原理を発見するために、科学者は、客観的、数学的な方法で「法則」を定式化する必要がある。「数学が適用できなかったり、数学と関連づけられないものは、科学において確実であるとは言えない」

    複雑さを生きる―やわらかな制御

    • 2007.05.17 Thursday
    • 23:11

    われわれ人間ひとりひとりの心身は、信じがたいくらいに高い計算能力がそなわっており、その力を活用しなければ、複雑な世界を生きることはできない。その創造的な力の作動を恐れ、外的な規模にとらわれ、直接的な目標達成のために頑張ることは、事態を悪化させるだけである。ものごとに取り組む場合には、その置かれた状況を視野に入れ、学習能力を活性化し、間接的で動的な働きかけを行わねばならない。そのために必要な暗黙の力があなたには必ずそなわっている。

    境界知のダイナミズム

    • 2007.05.16 Wednesday
    • 22:06

    私たち人間は本来、生存への適応だけでなく、社会の「ふつう」に対しても適応 しようとする。「ふつう」とは固定されたものではない。刻々と移り変わり、変 化するものであり、また私たち自身も「ふつう」との距離感を変えてゆく。これ からは知能をこのような時空間の中で動的に捉えてゆく必要が出てくる。筆者ら は<境界知>を通じて、人間の「社会的知能」への新しい視座を提示したいと考 えている。<境界知>とは社会に「適応」する際の<知>であり、さらにいうな ら社会への適応結果であると同時に、適応の行為そのもの、その過程、その能力 のことでもあるともいえるのではないか。

    社会も動き、人間も動いている。そこで機能する「適応」への知能が社会的知能、 すなわち<境界知>なのだ。

    瀬名 秀明,梅田 聡,橋本 敬
    岩波書店
    ¥ 2,310
    (2006-12)

    日本の科学/技術はどこへいくのか

    • 2007.05.15 Tuesday
    • 21:54

    環境」という言葉が現在のような意味で広く使われるようになったのはそれほど古いことではない。1970年代までは、むしろ「公害」という表現の方が普通であった。60年代、日本では高度成長の矛盾によって各地で産業公害が激化し、水俣などを代表とする公害訴訟が頻発。70年のいわゆる「公害国会」では、公害対策関係14法案が通過した。しかし、その翌年に発足した公害対策の行政機関が「環境庁」という名称を与えられたのは、時代の転換を予示するものだった。

    国際的な環境意識の高まりを象徴するのは、1972年6月、ストックホルムで開催された「国連人間環境会議」であろう。そこでまとめられた「人間環境宣言」では、環境汚染の問題を踏まえながらも、今後の課題として、生態系の保護、天然資源の管理された利用、再生不可能な資源の枯渇回避と公正な配分、有害物質や熱排出の抑制、適正な人口政策の実施、低開発国の開発支援などが宣言に含められた。

    成長の限界』と題されたレポートが刊行されたのは、この会議とほぼ同時期のことである。それは、世界各国のエリートの集まりともいうべきローマ・クラブが、マサチューセッツ工科大学のD・H・メドウズらに委嘱してとりまとめたものだ。このレポートの重要な結論の1つは、世界人口の増大、工業化、汚染、資源利用の趨勢が変わらなければ、100年以内に地球上の成長が限界点に達し、その結果、人口と工業力が突然制御不能となりかねないというものだった。

    地球の限界を前に、私たちは何をすればよいのであろうか。それを考えるヒントを与えてくれるのが、E・U・ワイツゼッカー、A・ロビンスらの著した『ファクター4』である。これは、72年の『成長の限界』と同じく、ローマ・クラブに対する報告書である。

    この本の主張の要点は、まえがきにあるように、「資源生産性がファクター4、つまり4倍に上昇するなら、今の豊かさを2倍にし、環境に対する負荷を半分にできる。資源生産性を4倍にすることは技術的には可能であり、巨大な経済的収益をもたらし、個人や企業、そして社会の全構成員を豊かにする」というものだ。世界人口や経済の成長を考慮すれば、それは現状の環境負荷を増大させない程度のものにとどまる。しかし、持続可能な成長にとって、ファクター4の達成は重要な一歩であり、地球の有限性に対する1つの回答となる。

    第28回「サントリー学芸賞」

    トマトはなぜ赤い―生態学入門

    • 2007.05.14 Monday
    • 23:52

    ただひたすらに高効率化だけをめざす生き方は、賢明ではなさそうだということは理解できよう。地球上のあらゆる生き物は、みな他の生物との関係のなかに生存しているということは極めて基本的な生態学の原理である。

    公共事業の正しい考え方―財政赤字の病理

    • 2007.05.09 Wednesday
    • 00:44

    「公共の福祉」という概念は過大に用いられやすい。たしかに、採算に値しないサービスであっても、公共の福祉のために、政府が責任を負うべきものは多い。こうした考え方自体は、有益であり大切である。しかし、「公共の福祉」が一人歩きしてしまう危険性もある。政府の行うものであれば何でも、「公共の福祉」という大義名分で合理化する傾向もみられる。

    どこまで政府が責任をもつべきかは、そうした政府サービスの受益メリットと負担コストをきちんと業務評価し、比較検討するなかで、定まってくるべきである。そのためにも、政府の業績評価に手前味噌のバイアスを生じさせないような仕組み、誘因が必要となる。利潤動機ではなくても、客観的で数量化された業務評価を確立することは、公共事業も含めて政府の経済活動を改革する上で重要である。

    「絵になる」まちをつくる―イタリアに学ぶ都市再生

    • 2007.05.08 Tuesday
    • 00:13

    イタリア・ルネッサンスの延長として近代西欧で科学主義が、「自然を意のままに操る」思想に直結し、これが現代の自然破壊を生んでいること、あるいは、精神と物質をバラバラに考えるいわゆる「二元論」が、心や身体のさまざまな問題の解決を難しくしていることが、現在多くの識者から指摘されている。

    しかしながら、イタリア人は、伝統と歴史を積み上げ、「保存・修復」という手法でまちづくりを行っている。こうしてイタリアの都市は、豊かな暮らしの舞台、生活者にやさしいまちとなり、ひとびとの愛郷精神を育む風景を熟成させている。

    一方、世界を分断的にとらえず、有史以来、自然もひとも生きとし生けるものとして一貫したエコロジー思想を持っていたはずの日本において、都市は著しい空洞カ化に疲弊し、まちの風景や環境の破壊が深刻さを増している。

    つまり、持続性や(風景を含む広義の)エコロジーをめぐって、イタリアと日本とのあいだに「逆転」が生じているのである。

    いちばん大事なこと―養老教授の環境論

    • 2007.05.07 Monday
    • 22:26

    それなら意識とはなにか。ヒトの脳でとくに発達した働きである。その働きが言葉を操り、都市をつくり出し、いわゆる近代社会をつくる。遺伝子からすれば、ヒトとほとんど違わないチンパンジーは、そのどれもやらない。脳が小さいからである。つまり環境問題を個人に戻せば、それは心と身体の対立という、たいへん古典的な問題に戻る。意識とはつまり心だからである。環境問題を追求していくと、原理的には自分の心身の問題に戻る。

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