たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する
- 2012.07.27 Friday
- 23:13
優れた小説の創造(あるいは、美しい宝石、美味しいチョコレートの創造)と、小説が(あるいは、宝石や、クッキーの箱が)何千もの小売店の店頭で山積みになることとのあいだには、ランダムネスと不正確さの巨大な溝が横たわっている。すべての分野の成功者が、ほとんどの例外なく、ある特定の人間集団―けっして諦めない人間集団―の一員であるのはそのためだ。
ことの大小を問わず、仕事での成功、投資での成功、決断での成功など、われわれの身に起こることの多くが、技量、準備、勤勉の結果であるのと同じぐらい、ランダムな要素の結果でもある。つまり、われわれが認識している世界は、その根底をなす人間や状況の直接の表れではない。そうではなく、それは予見できない。あるいは絶え間なく変化するランダムな作用によってぼかされた像だ。能力は問題ではない、と言っているのではない。能力は成功の確立を増す要素の一つである。しかし行動と結果の結びつきは、われわれが願うほど直接的ではない。だから、過去を理解するのは容易ではないし、未来を予測するのもそうだ。どちらについても、表面的な解釈を超えて考えることが有用だ。
近年心理学者たちは、障碍に直面しながら耐える能力は、才能と同じぐらい、成功の重要な要素であることを見出している。専門家がしばしば「10年規則」を、つまり、ほとんどの分野において大いなる成功者になるには少なくとも10年の勤勉、訓練、奮闘が必要であると説くのはそのためだ。
努力と偶然は生来の才能と同じぐらい重要、とするのは、やる気を失わせるようなことに思えるかもしれない。しかし私は励みになると思う。なぜなら、遺伝的要素はわれわれにはコントロールできないことだが、努力の程度はわれわれに委ねられているからだ。また偶然の作用も、何度も試みれば成功の確率を上げられる、という程度までは、われわれにコントロールできるからだ。
その数学が戦略を決める
- 2012.01.06 Friday
- 23:26
人間の心には、よく知られている各種の認知的な欠陥や偏りがあって、これが正確な予測能力を歪めてしまっているのだ。人は、重要そうに思える特異なできごとをあまりに重視しすぎる。
人は何かについてまちがった信念を抱いてしまうと、それにしがみつきがちだ。新しい証拠が出てきても、信念に反するものはつい軽視してしまい、既存の信念を裏付けてくれる証拠だけに注目してしまう。
物理学の原理と法則
- 2011.09.22 Thursday
- 22:54
人間は誰でも美しいものを見ると楽しく感じる。脳内ホルモンが分泌されて、脳がリラックスしたり、快感中枢を刺激したりするためかもしれない。美しいものと言っても人さまざまという意見もあるが、かなりの部分は一致するのではないだろうか。ルノアールの絵、ダイヤモンドの輝き、錦色に染まった山の光景、花びらを開こうとするバラ、それらの色調や造形や構成などが人間の感覚によく馴染むためと思われる。審美観はそれなりに人間に共通しているのである。
生物の保護はなぜ必要か―バイオダイバシティ(生物の多様性)という考え方
- 2007.06.26 Tuesday
- 23:56
世界の生物や生態系を守るために、これまでにもいくつもの条約が結ばれている。絶滅のおそれのある種の国際取引を規制するワシントン条約、湿地の生態系を保全するラムサール条約、価値ある自然遺産を保護する世界遺産条約、国境を越えて移動する種を保護するボン条約などである。
しかし、このような条約は、特定の生物種や生態系にスポットをあてて保護することが目的である。地球上のすべての生物と生態系をカバーする条約はなかった。
生物多様性条約は、これまでの条約が対象としている分野を包含し、対象としていなかった部分も含み、地球上のすべての生物の保全のあり方を示す基本的枠組みを示している。
条文には目標や政策のあり方が示されているだけで、細かい義務規定が書かれているわけではない。各国の政府が具体的に何をするかということは、これからつくられる予定の議定書や政府の判断にゆだねられる。
生物資源の利用のあり方について述べられていることも特徴的である。将来の世代の利用の可能性を摘みとってしまわないように、持続的に利用するという「保全」の考えが条約の全体につらぬかれている。
この条約では、生物の多様性の保全は、人類の共通の関心事項であるが、同時に各国の主権のもとで管理されることが確認されている。国家は自国内の生物資源を管理する権利をもつとともに、これを保全する責任と義務も負うのである。
ウォルター V. リード,藤倉 良,ケントン R. ミラー
ダイヤモンド社 --- (1994-06) |
トマトはなぜ赤い―生態学入門
- 2007.05.14 Monday
- 23:52
ただひたすらに高効率化だけをめざす生き方は、賢明ではなさそうだということは理解できよう。地球上のあらゆる生き物は、みな他の生物との関係のなかに生存しているということは極めて基本的な生態学の原理である。
新しい自然学―非線形科学の可能性
- 2007.03.26 Monday
- 22:52
生活の快適性への欲望を直接間接の動因として、人間は自然の部分部分に関する知識を頼りにして自然に働きかけてきたのであるが、生態系の破壊や大気汚染に見るように、それがときに巨大な損失となって人間に跳ね返ってくるという構図は、今や誰の目にも明らかになっている。これは知識と価値との分裂から来るというよりも、知のいびつさから来るものと思われる。その場合いびつさとは、部分知に比しての全体知の貧困という見方も成り立つかもしれないが、むしろ個物の相互関連の中に同一不変構造を求めるような知、すなわち述語的世界の記述における知の発達が遅れているということも重要なのではないかと思う。このようないびつさをもつ知にもとづいて、自然ヘ無思慮に働きかければ、取得される価値ははっきりと目に見えるのに、失われる価値についてはきわめて見えにくいという、先に述べた状況も理解できる。どれだけのものが失われるかに関して、前もって知識をもっていれば人は決して無謀なことはしない。問題は価値の不在ではなく、知の不在だと考えたい。
科学技術・地球システム・人間
- 2007.03.22 Thursday
- 23:53
生態系の論理は決してすべてが調和に向かっているという予定調和を示すものではない。多くの種の間に一定の均衡が成立するとしても、それはそれらの間のいろいろな形での相互作用の結果、たまたまそうなるだけであって、そのような均衡解において占めるべき位置を持たない種は滅びてしまうのである。従って残った種の間に調和が成立しているように見えても、それは結果としてそうなっただけであって、調和を目標としてシステムが変化してきたわけではない。またそのような均衡が生物の種の豊かさと多様性を反映するというのは正しくない。もしある範囲において物理化学的条件が一定に保たれ、外界からの強い影響がなければ、その中での生物の種の間の生存競争の結果は、結局その条件に最もよく適合した少数の種が生き残って、他の多くの種は滅んでしまう可能性が高いのである。
しかし地球上の多くの部分における生態系はむしろ安定的な均衡状態にあることは少ないように思われる。それは気候その他の外的条件が絶えず変化するからであるが、また生態系そのものが均衡解を持たないこともあり得るし、また均衡解を持つとしてもそれが安定的でない、つまり均衡に達することがあってもすぐまた離れてしまうようなものである場合も多いように思われる。いい換えれば生態系は数学的な意味でのカオスであることも考えられる。
天と地と人の間で―生態学から広がる世界
- 2007.02.27 Tuesday
- 23:24
テクノロジーによって克服できたかのように思われていた自然が、とても手強い、制御しがたいものとして私たちの前に立ち現れ、社会全体の再編成と新たな科学技術の再構築を迫っているともいえる。あらゆる英知を集め、また、科学の総力をあげて未来に対する不安を解消するための体制をつくることが、21世紀を前に最も必要とされていることなのではないだろうか。
いろいろなレベルで絡み合う複雑な環境の問題は、それぞれの専門分野の中だけで問題をとらえ、詳細に分析し、対策を立てるだけでは解決がむずかしい。例えば、農業生産を高めるために導入した外来生物がもたらす生態系ヘの影響のように、目先の個別の問題の解決のためにたてる対策が他のさらに深刻な問題をもたらしてしまうこともある。科学は、ますます細分化され専門化が進んでいるが、環境の問題を解決するには、それとずいぶん異なる方向性と知性が必要なように思われる。
素粒子から宇宙まで、遺伝子から地球まで、さまざまなスケールや階層においてすぐれた業績をあげてきた優れた洞察力をもつ科学者たちが、専門に拘泥せずに、多少の時間を難問解決のための思考に費やすというのはどうだろうか。
いま必要とされているのは、多様な専門家や非専門家の幅広い協働に加えて、広い視野から総合的に問題をとらえ鋭い洞察を加えるための傑出した「頭脳」や、科学的な思考のトレーニングを積んだ意思決定者なのではないかと思うからだ。
生態系を蘇らせる
- 2007.02.27 Tuesday
- 23:06
生物保全の生態学
- 2007.02.24 Saturday
- 00:27
対象に不確実性を認めた上で、政策の実行を順応的な方法で、また多様な利害関係者の参加のもとに実施しようとする新しい公的システム管理の手法である。生態系管理の実行においては、生態系が複雑なものであればあるほど大きな不確実性が伴う。一方、森林にしても河川にしても、そこから得られる財やサービスに関して多数の利害関係者が存在する。したがって、生態系管理の手法はおのずから順応的なものでなければならないことになる。
順応的管理(adaptive management)においては、地域の開発や生態系管理を一種の実験とみなす。計画は仮説、事業は実験であり、監視の結果によって仮説の検証が試みられる。その結果に応じて、新たな計画=仮説をたて、よりよい働きかけを行うべく、事業の「改善」を行う。この管理手法では、科学的な立場からの意見をも含め、広く利害関係をもつ人々の間での合意をはかるような合意形成システムをつくることが重視される。
生態系管理が順応的であるためには、生態系の成り立ち、構造、機能を支えている生態的な相互作用やプロセスについて、現時点で最も信頼性の高い生態学的知見を踏まえた調査・研究とモニタリングが欠かせない。管理の計画や手法は「仮説」であり、その有効性をモニタリングで確かめることが求められるからである。
順応的管理においては、科学的な要求、行政上の必要性、社会的な要求のいずれをもバランスよく考慮するための意思決定フォーラムが重要な役割を果たす。そこでは、研究者を含めた利害関係者ができる限り正確な科学的データをもとに、専門的な事項についても十分に理解したうえで、合意形成が図られる。