ワンクリック―ジェフ・ベゾス率いるAmazonの隆盛
- 2013.01.12 Saturday
- 19:44
ベゾスはこのとき「後悔最小化理論」を思いついたらしい。年を取って人生をふり返ったとき、どちらの道を選んだほうが後悔しないのかと考えるのだ。
「こういう考えで人生を送る人は少なくないのですが、それに『後悔最小化理論』などと名前を付けてしまうオタクはめったにいません。私くらいかもしれませんね」
結論はこうだった。
「1994年の半ばでウォールストリートの会社を辞め、ボーナスをもらいそこねても、80歳になったとき、それを後悔することは絶対にないと思ったのです。そういうことがあったと覚えてさえいないかもしれません。逆に、このインターネットというもの、燃えるような想いを抱いているものに身を投じなかった場合、あのときやっておけばよかったと心から後悔する可能性があると思いました。トライして失敗しても、それを後悔することがないのもわかっていました」 決死すれば、善は急げである。
「問題に遭遇した場合、我々は、あちらかこちらかという考え方を絶対にしません。両方が得られる方法を見つけるのです。できると信じて努力すれば、どのような箱からでも出られる方法を発明できます」
情報って何だろう (岩波ジュニア新書)
- 2012.04.03 Tuesday
- 23:43
情報は誰かによって作られるものです。ある情報が生まれるには、必ずその観測者が存在しています。また生まれた情報を伝達して流通させるのも人間です。どんな情報にも必ず人間による介在があり、その意味からすると表現者や伝達者の主観性が含まざるを得ないということを、私たちは認識しておかなければなりません。純粋に客観的な情報というのは、存在し得ないのです。
情報が人間によって知覚され生み出されるものだとするならば、必ずそこには何らかの意図が介在しているはずです。意図という言葉が適切でなければ、意思や知識、あるいは観点という言葉でもいいでしょう。
みんな集まれ! ネットワークが世界を動かす
- 2011.04.12 Tuesday
- 23:09
現代生活のあらゆる場面で、人々の集団行動の才能や欲求は、集団管理の複雑性からくる制度構造によって制限されてきた。今まで、皆が望んだすべての組織が誕生したわけではなく。成立が可能な組織だけが生まれてきた。しかし現在では、かつて無報酬、無管理の組織にあった行動の限界はなくなった。自発的に集合した組織につきまとっていた共同作業の困難さというものが減少し、集団が金銭的な動機や管理・監督なしに成し遂げられることが、数・種類とともに増加している。現在の変化を一言で言うなら、集団行動の際に立ちはだかっていた壁が崩れ、我々は自由に新たな組織化の方法を試し、何かに挑戦することが可能になったということだ。
我々が公共の世界について語る時、愛に話が及ぶことは少ない。愛は感傷的でプライベートなものだからだ。しかし、この歴史の転換期に、愛というものは感傷的でもプライベートでもなくなった。愛には半減期もあれば、及ぶ範囲も限られる。今まで我々にとって、そのどちらも小さいものだった。我々は人々を愛するが、愛の寿命と社会的な距離がそれを抑圧してきた。しかし今日の我々は、見知らぬ人のために何かをし、彼らも我々のために何かをしてくれる。こうした行為のためのコストが安くなったため、人々は喜んでそれを行う。そしてその結果はその後もずっと残っていく。ソーシャルツールは愛を再生可能な建築材料にしたのである。人々は互いに気遣い、協力しあい、かっては距離と寿命の縛りのために不可能だったことをやってのける。愛のために大仕事を成し遂げられるのである。
人間・社会・コンピュータの情報処理原論
- 2010.08.22 Sunday
- 11:13
受験勉強の影響で、「一般法則を理解しようとするより、個別的な結果を覚えて、早く答えを出そう」とする傾向が見られるからです。
これは人間の特色である「自由に考える」という力を捨てて、コンピュータのように、機械的に素早く動くことをめざしている、とも言えます。この傾向は入学試験のように、範囲が限られている問題には有効でしょうが、実社会に出てから出会う問題を解決するにはまったく役に立たないと断言できます。けっきょく役に立つのは、次の3つです。
- 自分が理解した事柄
- 熱中する力
- 感覚だけで判断を下すのではなく、自由に、ねばり強く考える力
風景からの町づくり
- 2008.02.07 Thursday
- 23:44
町並みをつくり上げているすべての要素を都市計画の立案者やデザイナーの自力に委ねることはとても無理です。ごく一部ならともかく、町すべての建築や道や川に、自力の解脱を期待するわけにはいきません。市民が、朝起きて景色に包まれながら出かけて、夕方また帰ってくる。そういう日常生活の中で、普段は忘れている町の美しさにハッと気がつく。自分はこの町で生き、この町で従容として死んでいくのだ。そのように思わせるのは、民芸に見られるような平穏無事の美なのではないでしょうか。今まで、都市や国家を論ずるわたしたちの精神の射程は、経済云々、ありいはせいぜい生きがい云々にとどまっていて、一度も「死」にまで至ったことがあったでしょうか。民芸の理想にはそれがあるように思います。
建築や橋や道路など、いずれも強い目的意識にもとづいて設計される風景の構造物に対してそれを適用するのがむずかしいことは確かですが、多忙と打算で身動きができない現代文明を映す鏡として、あるいはその解毒剤として、一つの大事なヒントがここにあると思えてなりません。
目的意識(自力)がゆうせんするげんだいぶんめいのなかで、草木に覆われた大地の泰然とした姿や、過ぎ去った時間の中で透けて見える風景という理想を求めるならば、過去の記憶や山水の趣にしたがうというような、他力を期待する構えもまたときには有効ではないでしょうか。それがもつ底力を信じて、そこから精気をくみあげる方法にほかなりません。
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週刊 「 司馬遼太郎 街道をゆく 」 2号 2/6号 湖西のみち/近江散歩 [雑誌]
- 2007.02.10 Saturday
- 01:15
「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。
はるか上代、大和盆地に権力が成立したころ、その大和権力の視力は関東の霞ケ浦までは見えなかったのか、東国といえば岐阜県からせいぜい静岡県ぐらいまでの範囲であった。岐阜県は、美濃という。ひろびろとした野が大和からみた印象だったのであろう。
さらには静岡県の東半分は駿河で、西半分は遠江という。浜名湖のしろじろとした水が大和人にとって印象を代表するものだったにちがいない。遠江は、遠つ淡海のチヂメ言葉である。
それに対して、近くにも淡海がある。近つ淡海という言葉をちぢめて、この滋賀県は近江の国といわれるようになった。国のまんなかは満々たる琵琶湖の水である。もっとも遠江はいまの静岡県ではなく、もっと大和にちかい、つまり琵琶湖の北の余呉湖やら賤ヶ岳のあたりを指した時代もあるらしい。
ちなみに湖東は平野で、日本のほうぼうからの人車が走っている。新幹線も名神高速道路も走っていて、通過地帯とはいえ、その輻輳ぶりは日本列島の朱雀大路のような体を呈しているが、しかし湖西はこれがおなじ近江かとおもうほど人煙が稀れである。